
絵本作家の祐彩(ゆうせい)です。
人は誰でも、生まれたときからやさしさを持っている。
そのことに異論を唱える人は、そんなに多くないのではないでしょうか。
ただ、そのやさしさを「誰かのためにどう使うのか」となると、少し難しくなる瞬間があります。
たとえば、
気づかないふりをして通りすぎるとき。
手を差し伸べたいのに、どうしていいかわからないとき。
行動したい気持ちがあるのに、踏み出せないとき。
そんな心の揺れは、大人も子どもも同じです。
むしろ大人になればなるほど、やさしさを外へ出すことに躊躇が生まれることがあるのかもしれません。
やさしさは、気合いでも努力でも作れません。
もともと自分の中にあったものが、ふとしたきっかけで「ひらく」だけだと思うのです。
そのきっかけは、人によって本当にさまざまです。
誰かからかけられた言葉だったり、
一度助けてもらった経験だったり、
自分の行動で誰かが喜んだ顔だったり。
小さな出来事が、心の奥に眠っていた「やさしさのスイッチ」に触れる。
そこからはじめて、やさしさは「思いやり」として外に向かうのではないかなって。
絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』に出てくる『きらきら』は、そのスイッチがに触れたときに生まれる光のようなものだと感じています。
『きらきら』とは、「自分の中にもこんな光があったかもしれない」と、読む人がそっと思い出すような存在なのかもしれません。
思いやりは、手順や正解を覚えるものではないと思っています。
困っている人を助けることも、
応援することも、
ただ話を聞くことも、
どれが正しくてどれが正しくない、という話ではなくて…。
その人の存在に気づいたり、受け入れたり。そうして、自分の心が動いた方向へ、小さく動いてみる。
これだけでも十分すぎるほどの思いやりだと、僕は思うんです。
絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』でアメが最後に味わった、胸の奥がじんわりあたたかくなる感覚——あれは、思いやりからうまれる、誰もが経験できる感触そのものなのかもしれません。
思いやりは、結果を求めて行うというより、自分の心の動きを相手にそのまま形にしたとき、自然と届くのではないでしょうか。
だからこそ、特別な才能も技術も必要なし、ましてテストや資格だって不要。
誰もが最初から持って生まれたやさしさが、静かに外へ動くだけのものだと思うのです。
絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』を読む中で、ハレとアメの違いに答えを求める必要はまったくもってありません。
ハレとアメと共に物語を綴る中で、「自分の中のやさしさって、どんなときに動くんだろう…。」
そんな思いを、そっと巡らせるような余白を含んだ絵本なのかもしれません。
それは、読者それぞれの経験や気持ちと静かにつながる時間。
やさしさが思いやりとして誰かに届くまでの道のりは、本当はとても個人的で、ひとつとして同じ形はないはずです。
誰もが持って生まれたやさしさの魔法を、どんな形で誰かに届いていくのか…。おはなしの続きを考えるのは、一人ひとりに委ねられています。
絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』は、ライブ絵本ルーミーパークでも体感できます。
ハレとアメの気持ちを表現するピアノと弦四重奏に、舞台俳優の朗読を通して、あなたが持つやさしさの魔法に、そっと触れてみませんか?
