
絵本作家の祐彩(ゆうせい)です。
絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』を開くと、最初に目に入るのは、
白いキャラクターのハレと黒いキャラクターのアメという、対照的だけれど、どこか似ているふたりの姿。
まるで、僕たちの中に同時に存在している別々の気持ちが、いるようです。
ハレとアメの行動は、はっきりした意図でというよりも、目の前の出来事にただただ素直に反応しているように見えます。
それがかえって、読む人の内側に眠っている記憶を、そっと揺らすような感覚を生んでいます。
おはなしの中で、ハレが誰かを励ましたり、落としたものを拾ってあげると、どこからともなく『きらきら』が降ってきて、少しずつ積もっていきます。
この『きらきら』は、目に見えるごほうびのようにも、誰かが与えた魔法のようにも描かれていません。
ただ、ハレが誰かに向けた行動に寄り添うように現れる光のような粒です。
それはまるで、ハレの内側で小さく灯ったあたたかいものが、外の世界へにじみ出た瞬間を目にしているようでもあります。
一方でアメは、最初のうちはその意味がわからず、自分もハレと同じものがほしいあまり、ある行動を起こしてしまいます。
しかし、誰かの『きらきら』は誰かのものでしかなく、それは自分を照らすものにはならないんですね。
アメがそこで気づくのは、その当たり前のようで難しい現実です。
アメはやがて、ハレの行動をマネてみることにします。
忘れた子に貸してあげたり、友だちを応援したり…。
それは最初、龍を呼んで贈り物をもらうためだったのかもしれません。
でも、アメ自身が気づかないうちに、少しずつ本人の中に変化が生まれます。
それに伴って、アメにも『きらきら』が積もり始めたのです。
ただ、アメはそれでも納得しません。
求めていたのはそのものではなく、その向こうにある正体のわからない感覚だったからです。
転機は、ヒツジのおばあさんが重い荷物を抱えて階段を上っていたシーンに出くわした時。
アメが自然と、おばあさんに手を差し伸べ、お礼を言われます。
その瞬間、アメの全身がビリビリと震えるようにあたたかくなる——
アメが探していたのは、『きらきら』そのものではなく、人とのやりとりの中で自分の内側に灯るあの感覚だったようです。
それに気づいたとき、アメはようやく「わかったぞー!」と叫び、嬉しさのあまり走り回ります。
絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』のページをよく見ると、どのシーンでも太陽がいます。
ふたりを評価したり裁いたりするわけでもなく、ただ照らし、見守る存在。
『きらきら』は、この太陽がハレやアメにあげているのか?と読者さん訊かれたことがありますが、僕はこう思っています。
『きらきら』は、誰かが与えるものでもないし、取り合うものでもないと。
ただ、物語の中でハレがそうであったように、アメが最後に気づいたように、誰もが自分の内側からふと生まれてくるものだと思うのです。
ライブ絵本ルーミーパークからうまれたこの絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』では、物語のあとに『きらきら』という主題歌を歌手と会場のみんなで歌います。
この時僕は、『きらきら』がハッキリと見えるんです。きっと会場にいる誰もが見えているのではないでしょうか。
もし絵本『ハレとアメのきらきらあつめっこ』を音楽の生演奏と舞台表現を通して、五感で体感したいと思ったなら、ライブ絵本ルーミーパークへ遊びにきてくださいね。
ここで僕が長々と書いた記事を読むよりも、きっとあっというまに『きらきら』を体感できるはずです。
